Hello World
- Rizky Hiroshi Kamakari
- Nov 3, 2018
- 2 min read
僕は昔から人一倍思い出を保有したがる。と言うと大げさだが、楽しかった出来事や日々の何気ない日常、その時の空気感や空の色、街の景色などを忘れるのが非常に嫌なのである。小さい頃は放課後の学校で遊んでいるときや、家族で出かけているときなど楽しい出来事が起こると、決まって心の中でシャッターを切っていた。何か特別な動作をするわけではないが、「今だ!」と思うときに目に映る景色を忘れないように記憶に刻み込んでいた。みんな子どもの頃はおもちゃやホビーなどを集めていたが、僕にとってはそれと同じように思い出も沢山抱えていた。そのおかげかわからないが、最近昔の同級生たちと集まったら僕だけそのときの詳細な出来事や誰が何を話したとかをいちいち事細かに覚えていて驚かれる。僕からすれば、なんであんなに楽しかった出来事をみんな忘れてしまうのっと少し悲しくなる。僕はこういう状況を、小さい頃は当たり前のように集まっていたのに、いつの間にか見向きもしなくなった公園になぞらえて「取り残された公園シンドローム」と名付けることにした。ちなみにこのときの公園は夕暮れを想像してくれるとなお良い。
僕はある時記憶の収集が頭では追いつかなくなり、ついにカメラを手にした。これによりさらに記憶収集に拍車がかかった。楽しかった思い出はどんどんと記録として増えていった。だがカメラには記録という側面だけでなく芸術という側面もあるというのにあるとき気がついた。そしてその境界線は他の芸術に比べて非常にぼやけているのではないのかと感じた。つまりは日々の記録が芸術にも変わり得るのだと思ったのだった。
僕が美しいと思うものと、あなたが美しいと思うものは当然違うのが当たり前で、お互いすり寄っていく必要はないと思う。だが、僕が感じた美しいを写真というツールを通してあなたと共感できるとすれば、それはもう魔法である。
時間は一秒ごとに過去となり、今は無情にも思い出に変わる。写真はそんな今を切り取って、タイムマシーンのように未来まで届けてくれる。記憶はいつか失ってしまうかもしれないが、写真はいつまでも残ってくれる。だから忘れたくない思い出が今後も続く限り、僕はシャッターを切り続けるだろう。
僕の思い出が自分自身で消化されて終わるのか。それともまだ見ぬ誰かの人生を変えられるのか。未来にどんな景色が見られるのかは到底見当もつかないが、僕は今、ただただ、目の前に映る全てを忘れたくない。
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